工芸職人の地位・桜紋様の拳銃を見て

 
 工芸職人の地位・桜紋様の拳銃を見て

 NHKに歴史ヒストリアという番組があります。
先日「桜田門外の変の主犯は水戸斉昭!」という内容で放送されていました。

 何でも最近アメリカで発見された古い拳銃が、その箱書きや諸状況から井伊直弼の命を奪った銃だと分かったそうです。井伊直弼はまず発砲で致命傷を受け、動けなくなったところを刀で止めを刺されたことも水戸家に残る検案書などから分かっているそうです。

 それがこの銃。


              (写真は番組映像から)

 番組では、この拳銃はペリーが幕府に献上したものを模倣して、
日本で製造された国産品だと紹介していました。




上がペリーの銃の図。アメリカ製の51ネイビーという銃だそうです。
下が直弼を撃った銃。
確かに寸分違いません。模倣元はいかにもアメリカ西部劇に出てきそうですが、
日本国産の方は何とも言えず和風です。

 ベリーの拳銃は10丁ほどしかなく、それを手に入れて、「同じ物を作れ」と命じることができたのは、かつ井伊直弼を暗殺する動機があったのは、水戸斉昭。
彼こそ桜田門外の変の主犯だと、番組では論じていました。
 歴女である私は、へえ!そうなんですか!と面白く観ました。


 でも皆様に紹介したいと思ったのは、
別の観点から見たこの銃です。

銃身に一面に桜が彫り込まれています。
和風に見えるのは、鋼鉄全体が漆のように黒いことと、この桜紋様のためでしょう。
まるで漆塗りのようなイメージです。





 モデルであるペリーの銃には彫り物などありませんから、これは製作者の考えで彫られたのです。「模倣せよ」と命じられて、機能を模倣したのに加えて、それ以上に美しい物を作り上げたということです。
「モノづくり日本」という言葉は好きではないのですが、思わず頭をよぎりました。
 解説者によれば、強烈な尊王攘夷派だった水戸斉昭のために、天皇をイメージさせる吉野の桜を彫ったのではないかということです。
注文主である斉昭は喜んだことでしょう。そしてこの銃を実行犯になる藩士に渡して暗殺を命じた、と考えられるそうです。

 もうひとつ、モノを作る側にとって一番重要なのは、
銃身に実際の製作者の氏名が彫ってあるということです。


   これは鉄砲鍛冶の名前


これは桜紋様を彫った職人の名前

これには本当に驚きました。
 いわゆる職人の社会的地位は江戸時代には低く、刀工のような特別な工芸職人をのぞけば、工芸品を作った職人の名前が残ることはなかったのです。刀の鍔(つば)や鞘(さや)も立派な工芸品なのに、名刀の銘で残るのは刀工だけ。
 尾形光琳のように絵師は芸術家として名前を作品に残せましたが、着物を染めても刺繍をしても名前を作品に残すことはありませんでした。


 中世の陶工はすべて無名。芸術家を自認して作品に自分の名をいれた初期の陶工である野々村仁清。彼以降でも献上品を作るときは、はばかって名前を入れなかったり、入れた名前を隠したりということがあったと聞いています。漆芸でも同じ。
 比べてこの銃は、水戸斉昭という将軍に準じる身分の人に納めるにあたり、
製作者たちは堂々と名前を残しているのです。嬉しいですね~。
幕末は商人の力が台頭したとは歴史で習うところですが、
職人の地位も上がってきたのでしょうか。


 明治期になると、美術工芸品を輸出して外貨を稼ぐという日本の国策に後押しされて、工芸職人の地位は上がっていきました。
 不肖ぼかし屋でも誂え染めの着物が出来上がると、最後に下前の裾に落款をおしたりサインを入れたりします。
 この習慣はいつ頃からか分かりませんが、大正、昭和になってからだと思います。日本画の画家が落款を入れることに影響されて、誂えの着物に落款が入るようになったのです。

 江戸時代はどんな立派な打掛、小袖でも、能衣装でも製作者はみな無名。せいぜい納品した呉服屋さんや織元さん、つまり職人に作らせた人、の名前が分かったりするくらいです。
 博物館で立派な刺繍の打掛などを観ると「こんな細かい仕事したのはどんな人だろう」などと考えます。毎日毎日黙々と針を動かし続けたのでしょうね。名前は残らずとも、作品が今日に残りましたよ、とガラス越しに語りかけます。

東京手描き友禅 模様のお話 | 09:01 PM | comments (x) | trackback (x)

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