東京友禅は、ぼかし屋友禅へ

 
引き続き着物風俗のお話を、再放送のNHK大河ドラマ「篤姫」の衣装に関連して。
今回は腰巻姿という武士階級の女性の着物についてです。
安土桃山、江戸期の身分ある女性の装いのうち、打掛、小袖などの装い姿は有名で、時代劇などでも見る機会が多いのですが、めったに見る機会のない「腰巻姿」という装いをご存知でしょうか。私も展覧会で再現してマネキンが着用している様子を見たことがあるだけで、実際に着用している様子は見たことがありません。白い小袖の上に羽織った打掛、あるいは豪華な模様の小袖、を帯でしっかり体にとめてから上半身だけ脱いでしまった感じです。すると当然打掛の上半身、袖などがウエストまわりや背後ろに垂れ下がります。それを豪華に見えるよう着付けを工夫した装い姿です。特に袖部分に棒状の支えを入れて袖を左右に張らせ、前から見ても袖が見えるようにしています。
 本当のところ、着用するとどんな感じかしら、と思っていたところ、「篤姫」再放送 第33回で篤姫役の女優さんがワンシーンながら腰巻姿で登場し、びっくりしました。
着座した姿だけだったのが残念。せっかく女優さんに着付けをしたのですから、立ち姿、歩く様子も映像にしてほしかったですね。立ちあがると腰の後ろからかなり腰巻袖部分が左右にかなり出っ張る派手な着付けのはず。映像でも濃茶地の織物の打掛をウエスト部分にぐるりと巻き付けて、座る篤姫の背から左右に打掛の袖部分が張り出しています。映像を静止させて(便利な時代ですね)よく観ると、両袖の途中まで棒状の支えを入れて着付けるようです。より豪華に見せるためでしょうか。上半身は、白地の小袖ながら豪華な刺繍で華やかです。
ドラマの場面は前将軍の御台所として老中に合うシーンです。他の多くのシーンでは、夫を亡くした妻として地味な被布姿の場合が多いので、この腰巻姿は際立って華やかでした。表政治の代表たる老中に篤姫が物申すシーンでしたから、華やかにして威勢を張ったという意味なのかもしれません。
 


この腰巻姿の良い参考例としては、「お市の方」を描いた著名な画像があります。お市の方、つまり織田信長の妹で浅井長政の夫人ですから、安土桃山時代の女性で、幕末の篤姫から遡ること300年ですが、着付け方法はほぼ同じです。赤みの艶やかそうな打掛で腰から下が覆われ、上半身は真っ白な小袖だけ。やはり坐像です。朝日新聞社「日本美術に描かれた女性たち」によれば、絵画としては江戸時代初期のものだそうです。確かに近江の一大名の妻にしては着物が立派過ぎる感じもします。江戸初期になってから、娘の誰かが追悼のために描かせたのかもしれないですね。
着物あれこれ | 11:39 PM | comments (x) | trackback (x)
先週に引き続き、テレビで見かけた着物姿についてもう一つ。
つい先日まで再放送されたNHK大河ドラマ、篤姫を見ていました。
本来の放送の時は、篤姫が薩摩で西郷、大久保といった人々と交流する設定が時代考証として無理で、面白いと思えずあまり見なかったのですが、今回はストーリーより衣装が目的で毎回楽しみました。
 ご存じのように篤姫は薩摩藩主の分家の娘(それだってかなり高い身分ですが)として生まれ、本家の薩摩藩主の養女となり、さらに徳川将軍家に嫁いだ人。ですから身分が上がるにつれ、篤姫とその近辺の人々の着物のグレードが上がっていき、様々な衣装で登場します。若くして藩主、島津家の姫君となってからは、これぞお姫様の中のお姫様、という真っ赤な着物の数々。髪型も武家というよりは公家の女性に近い結い方となりました。実際のところ、彼女はさらに摂関家である近衛家の養女となって格を上げてから徳川家に嫁いだのでした。公家風を教え込む専門の老女もいたそうです。
 印象的だったのは将軍との婚礼衣装。白無垢で胸にお守りを下げていました。実際に篤姫自身がどのような衣装だったか、本当のところは資料もないことと思われます。きっとこの装いは衣装担当の方々が当時の資料などからお考えになったのでしょう。初々しく好感持てる花嫁姿でした。
 将軍の御台所となってからは、本当に華やかな小袖、打掛の数々。教育係の老女、幾島など大奥の大勢の女性の着物姿も飽きることはありませんでした。特に篤姫の姑である本寿院が夫(前将軍)を亡くした女性として地味な被布を着ているのに、貫禄たっぷりで見応えあり、楽しませてくれました。
被布は今では七五三の三歳女児しか着ませんが、大人の女性も着るものでした。でも何となくご隠居様が着るイメージですね。夫のいる若い、あるいは中年の女性は着ないものだったのかどうか。私は不勉強で知らないのですが。
 女優の森光子さん主演の放浪記のお芝居で、終盤、経済的に余裕の出た林芙美子が、その老母に立派な織の被布を着せていて、老母が「無理に着せられている、云々」というセリフを言うシーンがあります。地味な色合いですが、何とも言えない華やかさがありました。被布を着たご隠居がいらっしゃるというのはステータスだったのでしょう。今は見かけませんね、本当に。

着物あれこれ | 12:29 AM | comments (x) | trackback (x)
 関東の桜は残すところ山桜が少々となりました。先日風に吹かれて桜吹雪が舞う中、改めて桜は一瞬の花で諸行無常という言葉が似合うなどと考えていて、 少し前に見ていたTVの時代劇「薄桜記」を思い出しました。
 昨年、同時期のNHK大河ドラマ「平清盛」の時代考証が凝っていて、正し過ぎて登場人物の身なりが汚く?評判が今一つだった(私はファンでしたが)のに対し、こちらは正調TVドラマらしく江戸庶民も小奇麗な身なりで登場。これはこれで楽しめました。
 主演俳優さんが旗本姿、浪人姿とも見栄えがしました。不本意な出来事から浪人の身となった後の姿は粋でした。木綿物の小袖もパリッとした着こなしでした。
ご覧になった方、お気づきでしたが。終盤に羽織袴姿で登場したとき、羽織の下の小袖は紺地に細かい桜の模様でした。いよいよ悲劇的なクライマックスが近いと予告するような気づかいを感じました。
 主人公の妻役の女優さんが武家の女性らしい美しさでした。プライベートでは小紋に織帯。侍女として勤務中は地味な小紋に黒繻子の帯。小紋は裾長な着付けでお引きずりに。帯はきっぱり羽を張らせた文庫結び。同じ絹物の小紋であっても、彼女の母親役は抑えた色合い、一方で彼女の女主人である大名家の女性は豪華な柄の小紋でした。
 楽しめるとは言いつつも、このお話しは主人公夫婦の愛情を描き二人の悲しい死で終わります。山本周五郎の原作から、悲劇と知っているからこそ、より切ない美しさでした。綺麗な時代劇でした。
 そろそろ桜はすべて終わりツツジや藤の季節に移ります。暑い寒いは苦手ですが、四季のある国に生まれてよかったと思います。

着物あれこれ | 12:29 AM | comments (x) | trackback (x)
友禅染、特に手描友禅の着物の場合、代表的模様と言えば何といっても花模様。
という訳で、折あれば季節の花は見るようにしています。忙しいのは春。桜は見逃せません。


千鳥ヶ淵の眺め

 今年は寒い時期が長く一気に暖かくなり各地で桜がいっせいに咲いたようです。毎年欠かさず千鳥ヶ淵で桜見物をいたします。写真は見学道の半ばくらいのものです。
 千鳥ヶ淵の桜が他と違う点は桜を立体的構図で見られることです。通常公園や野山で桜を見る場合は木を下から上へ見上げるようにして鑑賞しますが、千鳥ヶ淵は堀の両岸に植えられた桜なので、枝は上ばかりでなく堀下の水面に向かっても枝が広がっています。見学道から眺めると、視線を上に向けても下に向けても桜があるのです。さらに対岸にも桜があるため、遠近の桜が楽しめます。この桜の高低差と遠近感のおかげで千鳥ヶ淵の桜は豪華な眺めなになっているのです。
 今年は桜だけでなく、千鳥ヶ淵界隈でみられた他の花々も撮影してみました。


椿の花がまるで染模様のお手本のように綺麗に整った姿でした。


まだモクレンが残っていました。着物が柄になることは少ないのですが、ワイン色が艶やかでした。


シャガの花


千鳥ヶ淵の手前、牛ヶ淵の眺め。菜の花と雪柳が見えます。春ですねえ!

 近くの日本武道館で大学の卒業式があり、袴姿の女学生をたくさん観ることができました。入学式と重なると黒のスーツ姿ばかりですが、今年は運よく着物姿をたくさん見ることが出来ました。

 今年は神田川沿いの桜も楽しみました。
 高田馬場界隈の神田川沿いはもともと水を生かした染色業が盛んだったそうです。今も染色関連業の事業所が多く残っています。私の師匠の早坂染芸もそうです。
私が子供のころは(かなり昔ですが)神田川の水系は台風のたび、あちこちで洪水を起こしていました。私も昼間の台風で小学校から帰れなくなり水没した橋を父に背負われて渡って帰宅した記憶があります。
 今は浚渫や護岸工事が済み洪水の心配がなくなり、両岸の桜が成長してまずまずの眺めになってきました。昔に比べれば環境に気を使うようになったためか、皇居のお堀も神田川も河川全体の水質は良くなったのではないでしょうか。それこそ子供の頃は都内の川はどこもひどい有様でした。これからも少しずつでも美しい都市に近づいてほしいものです。
 残る大きな課題は日本橋ですね。高速道路が被っていないお江戸日本橋の風景を見てみたいものです。

季節の便り | 08:31 PM | comments (x) | trackback (x)
 このホームページをご覧いただく皆様はもうお気づきでしょうか。
 ぼかし屋の着物写真には他であまり見かけない種類のものがあります。
ホームページの「ぼかし屋の作品例」に登場した菊柄の訪問着を例にお話しいたしましょう。
 ぼかし屋がよく使用しますのは、下図のように上向きに折りたたんだ状態の着物写真です。 

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 姉様人形の形に似ているので「姉様畳み」と勝手に呼んでおります。
この畳み方ですと、実際に着用した時の感じを掴みやすいので重宝しております。
着物の写真といえば一般的に衣桁に掛けた着物を背面から写したものです



 同じ着物でも見え方がだいぶ違いますね。
 この形では着用した場合に一番気になる上前の模様はよく見えません。襟元や胸元、袖の前部分はまったく写りません。そのため慣れない方は着用イメージを掴みにくくなります。ご自分が着たい雰囲気なのか、派手なのか、地味なのか、等々。
 そこで写真では「姉様畳み」を愛用するようになりました。
例えば下図は「姉様畳み」の場合の上前部分です。



襟回りから上前袖の上部までよく分かります。
特に複数色で染め分けた着物の場合は、顔に近い部分の色合いは気になるところです。衣桁に掛けた状態ではまったく分かりませんが、「姉様畳み」ではイメージしやすくなります。
 衣桁に掛けて背面から着物を鑑賞することが、いつ頃から始まったのか分かりませんが、それほど古くないと思っております。おそらく織物の技術が発達し、豪華な打掛が生産されるようになってからではないでしょうか。
仕立て上った時に前も後ろも全面に同じように模様がある織りの打掛類は、背面から鑑賞した方が織物の柄や技術を確かめやすくなります。 ご存じのように能衣装や花嫁衣裳は衣桁に掛かって飾られていると大変見栄えがいたします。 
 一方で、訪問着や付け下げを衣桁に掛けて飾った場合、一番目に入る背面は、実際には帯やお端折りの下になる部分ですから、着用すると見えないところなのです。
 見たいところが見えるというのは大切だと思います。
 現在の皇太子ご婚礼に先立って公開された花嫁衣裳の十二単の写真を当時新聞で見ましたが、衣桁に掛けた衣装を背面ではなく前向きに展示し、その前に裳が別に飾ってあったのを記憶しております。何色もの重ねの衣装の色目は前面の襟や袖口でこそ美しいものですから、美しいところを見せるようにしたものでしょう。
 残念ですが、今のところ訪問着などの場合も衣桁に代わるよい展示の仕方がありません。実際の展示では衣桁の背面飾りでも仕方がありませんが、ぼかし屋ホームページ写真の場合は「姉様畳み」を利用しながらご覧いただき、着用イメージを持っていただけたらと思っております。

お知らせ | 01:53 PM | comments (x) | trackback (x)
 上野の国立博物館へ、円空仏の特別展示を見にいってきました。



 円空は江戸時代初期のお坊さんで、木を削って作った多くの仏像を残しました。
おもに飛騨で活躍しましたが、放浪もしており、遠くは北海道でも作品が発見されるそうです。
 感銘を受けたのは、その木の使い方です。
マキ割りの要領で木を切り出し、ごくごく荒削りな仏様ばかりですが、ごく最初の段階で木目などを考慮して、どのようなお顔、衣、ポーズか決めてしまうようでした。



割った木材の縦に流れる断面をそのまま法衣の袖などの流れに見立てて仏様を表現しているのです。人工の作業は最低限で木材本来の力強さがあります。
ですから木彫りというより木を削り出して作ったといえそうです。
さっくりした上から下へ流れる衣の表現が素晴らしいものでした。
立木へ直接掘り出した仏様もあり、大変な迫力でした。
村の入り口にあったらしい大きな立像は、北米大陸のトーテムポールのイメージ。

在野の仏師だったからか、国宝、重文に指定されている仏像はないようでした。
確かに運慶・快慶といった仏師とは大きく作風が異なりますが、多くの庶民に寄り添って仏様を生み出していたお坊さんであり、国の宝に違いありません。

会期は4月7日まで。桜見物を兼ねてお出かけになってはいかがでしょうか。
本館の展示です。

早めの桜が咲いていました。しだれ桜と手前が河津桜です。
展覧会ルポ | 04:16 AM | comments (x) | trackback (x)
 だいぶ暖かくなりました。雛祭りも過ぎてしまいましたが、旧暦ならまだ二月なのでご勘弁いただき、今日はぼかし屋所有のお雛様をご紹介いたします。



岩槻の人形作家、有松陽寿氏の木目込み人形です。
静かな大人びた雰囲気で、上品な引き目に鼻筋が通り、お下げ髪です。衣装着のお雛様の髪はおすべらかしが普通ですが、木目込み人形はたいていお下げですね。このお雛様も鬢を膨らませることなく、まっすぐに下げた髪を後ろで束ねています。
衣装は十二単で、全体に平安朝風なところが気に入っております。
お内裏様は正統派の直衣姿。濃い藍色の渋い色目がお雛様の柔らかさを際立たせています。
後ろの屏風は酒井抱一の屏風絵を模したミニチュアで、抱一の展覧会のミュージアムショップでみつけ、このお雛様・お内裏様にとてもお似合いだと思い購入しました。なかなか一度に揃えることは出来ませんが、少しずつお道具も買い足して来ました。お道具は古美術店で発見しました。塗りのお道具類を新品で購入することは経済的に無理なのでUsedで楽しんでいます。
毎年このお雛様に会うと、名残り惜しいのでいつまでも飾っております。でももうそろそろ仕舞ってお休みいただかなくては。

着物あれこれ | 08:02 PM | comments (x) | trackback (x)
着物姿の卒業式と言えば何といっても袴です。女学生最後の式典に明治大正の女学生の象徴だった袴姿で正装するのは、もはや常識のようになっていますね。
 最近NHK の「美の壺」という番組で女学生の袴を取り上げていました。それによると明治初期の女学生は男性用の袴をはいていたそうです。写真が写っていましたが、なるほどお侍さんがはいていたような雰囲気の袴で、無粋な感じ。それも程なく「見苦しい」という理由で禁止になったそうです。その後、女学生の袴の誕生に貢献したのは当時、華族女学校で教えていた下田歌子という先生だそうです。宮中女官の正装が袿袴であったところから、着流しではなく女学生も袴をつけるのが礼にかなうという理由で、下田歌子が女学校に袴を取り入れたのだとか。そしてその際にズボン型の袴から現在のようなスカート型に変わったそうです。
 そんな経緯があったとは知りませんでした。確かに本来袴は袿姿に欠かせないもので、宮中の女性と言えば袴。今の神社の巫女さんのファッションにみられるように、白い小袖に緋の袴が基本です。その上に身分や場に応じて袿をガウンのようにまとえば袿姿。さらにその上から裳をつけて後ろに引き、上着として唐衣を重ねるといわゆる十二単の出来上がり。袴はズボン型で後ろに長く引く長袴、ただし立ち働く必要がある場合などは引きずらない程度の長さだったようです。今の巫女さんの袴も引きずらないズボン型が多いようにお見受けします。
 なぜ女学生用に考案された時、袴がスカート型になったのでしょう。下田歌子女史に聞いてみたいですね。
 下田歌子、どんな人だったのだろう、とネット検索してみたら、ありました。今の実践女子学園を創設した教育者だったそうです。同学園のホームページに写真が載っていました。それが袴姿。なるほど、なるほど。写真では確かにスカート型の袴を着用し、その上から被布か道行か分かりませんが、上着を羽織っています。優し気な上品な雰囲気の女性の写真でした。
 以前からスカート型の女学生袴を見ると 韓国の民族衣装であるチマ・チョゴリを思い浮かべておりました。
 基本の構造が同じです。チマの方が袴よりフワッとしていますし、色、柄もはるかに豊富ですが、さっそうと歩ける点は同じです。はるか昔、例えば高松塚古墳の壁画の女性たちの時代は、日本も朝鮮半島もほとんど同じファッションだったと思われるのに、その後それぞれに発達した結果、朝鮮半島ファッションが高松塚古墳ファッションを元にスカート型のチマになったのとは対照的に、日本では下着であったはずの小袖が発達し、袴を省略した着流しの小袖姿を装飾性の高い帯でしめ上げるようになってしまいました。残念ながら今の日本の着物は「動きにくい、着にくい」ものになっております。
 先祖が1000年以上にわたって育んできた文化の結果なので、今さら仕方がありませんが、私は常々、日本の着物もチマ・チョゴリのような袴型ファッションが主流だったらよかったのに、と思っております。訪問着や振袖(つまり小袖)に西陣織などの幅広の豪華な帯を組み合わせる今の日本の着物姿が、もちろん好きですが、非活動的であることだけは確かですから。
 なぜこうなったのか、ご先祖様に聞いてみたいものですね。
着物あれこれ | 12:06 AM | comments (x) | trackback (x)
 若い女性や子供の着る振袖のことで少々驚いたことがありました。
 先日、三井記念美術館で開催された「三井家のおひなさま」展を見ました。展示のお雛様が素敵であったのはさることながら、興味を引かれたのはお雛様の持ち主である女性たちの写真でした。
 特に一枚、10代後半から4,5歳の幼児までずらりと並んだ振袖姿の写真がありました。 当時の振袖は五つ紋付き。刺繍や友禅染めの模様が入るのは袖の下半分と裾まわりだけ。上半身に柄はありません。ですから上半身だけの写真ですと振袖か留袖か色無地かは見分けがつきません。その写真は全身像だったので柄行きがよく見えました。
 驚いた点というのは、一番幼い女の子まで紋付きの振袖だったことです。当時の紋は今より大きく、小さな体ですと着丈、袖丈もとても短いですから、袖などは模様の入るスキはあるのだろうかと思います。どんな柄おきにすることやら、と考えてしまいましたが、現代ではこのような紋付き振袖の誂えはまずあり得ないのでした。子供の着物はほとんど全身に模様があってもよい位ですから。 上半身に模様をおかずに紋をおくということは可愛らしさより格式が重んじられたのですね。
 当主夫妻の結婚写真も複数展示されていました。女性が袿姿(袿袴)の写真もいくつか。髪をおすべらかしに結い、それこそお雛様のようでした。
 展示品の雛道具の中に、唐庇車(御所車)がありました。かなり本物に忠実に作られていて、本物を見る機会のない現代人としては、図案作成の有難い参考になりました。図録、もちろん買いました。
 色々な日本画や屏風絵などを見ると勉強になりますので、展覧会にはなるべく足を運ぶようにしています。それに美術館はいるだけで気分転換になる所が多いですね。
展覧会ルポ | 11:26 PM | comments (x) | trackback (x)
 最近知った英語に Bespoke があります。誂えという意味だそうです。
誂えるといえばオーダーメイド。でもこれは和製英語だそうです。正しくは custom-made 仕立て屋さんで誂える場合は tailor made とか。この辺りは何となく知っていても 
Bespoke は知りませんでした。
 背広の語源で知られるロンドンのセビル・ロウ通りにある紳士服の仕立て屋さんで主に使われる言葉とか。
誂え制作では、注文する人と受注する側が、たくさん話して作り上げていくからでしょうか。なかなか意味深長な言葉ですね。
 日本で誂えるものと言えば着物でしょう、と言いたいところですが、今どきアツラエルという動詞を知らない若者もいて残念。それに日本でもオーダーメイドで思い浮かぶものの筆頭はやはり紳士服。残念ながらちょっと太刀打ちできません。
 それでも東京手描友禅では他の産地と比べ、もともと誂え染めの割合が高かったという話を聞いたことがあります。未確認ですが。何でも京友禅と比べると業界規模自体が小さかったため量産が発達せず、かえって創作1点ものの誂えが多く生き残ったそうです。京友禅は日本中に出回りましたが、東京の友禅は地産地消ですから。
 着物や衣服だけでなく、他にも誂え制作を注文できる分野は広がるといいですね。
 

着物あれこれ | 02:23 AM | comments (x) | trackback (x)

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