東京友禅は、ぼかし屋友禅へ

 
冬枯れの箱根に行ってきました。
木々に葉がなく素通し状態なので、回りを取り巻く「箱根の山は天下の険」を見渡すことができました。見渡すというより険峻な山々に見下ろされている感じ。
箱根の山々は遥か昔のカルデラ噴火の跡だそうです、そう思うと…恐ろしい…ですが、木々の緑のない時期の箱根は迫力あってお勧めです。


千石原で撮影
駆け抜ける赤いスポーツカーが枯れススキの間から見えました。慌てて写したわりにはお気に入りとなりました。


観光客の少ない静かな仙石原にエンジン音を響かせて走り去りました。


訪ねたのは岡田美術館の「金屏風の祭典」
安土桃山期から江戸期の金屏風の所蔵品をまとめて展示するイベントでした。


上→ 長谷川派が得意とした柳橋図
下→ 狩野派得意の松に鶴図

どちらも何度見ても見飽きません。「お師匠さんの手本に沿って一生懸命描いた」と伝わるところもまた好きです。

驚いたのはこちら、




尾形光琳「菊図」

光琳の屏風はどれも有名なので、何かの展覧会、何かの本でほとんど見ていると思っていましたが、こちらは初めてお目にかかりました。
門外不出なのでしょうか。(画像は展覧会チラシから)
リズミカルに菊だけを配置している光琳らしい屏風でした。

金屏風展以外にも岡田美術館の豊富な所蔵品が常設展示されていて、見ごたえありました。特に中国の陶磁器。全館撮影禁止だったので紹介できないのですが、乾隆帝の時期に焼かれた「豆彩」という彩色技法の磁器が美しかった!
白地に細かく紋様を描き込んであり、それをクッキリ見せるため模様を青で縁取っているのです。


(美術館HP写真から一部お借りしました)

花瓶の白い表面に模様がくっきりと浮きあがって見飽きません。
清朝最盛期ですから逆輸入で日本やヨーロッパの焼物技術の影響を受けているそうです。

金屏風展は6月2日まで。五月下旬に訪ねれば箱根の紫陽花も楽しめます。
(ぜったい混んでます(^^;))

展覧会ルポ | 11:49 PM | comments (x) | trackback (x)
東京手描友禅、染芸展のご案内

今年も東京手描友禅の職人組合主催の染芸展が3/1~3/3まで開かれます。
毎年「浅草の雷様のお参りのついでにいかがですか」と案内してきましたが、浅草での開催は今年で最後となりました。
来年から上野の東京都美術館ギャラリーに引っ越します。

手描友禅や型友禅、絞り染め、手刺繍、絹の生地を織るなど伝統産業としての着物業界は、残念ながらここ20年ほどインクジェットプリントによるレンタル事業に押される一方となっております。
コンピューター技術の発達による恩恵はスマホ、ネット情報、映像技術など様々な場面に及び、便利なわけですが…
街角で写真屋さん、印刷屋さんを見かけなくなったように、伝統工芸としての着物産業も縮小の一途とたどっております。
職人組合の所属員も減少し、同じ東京都の施設ながら産業会館で開催する規模を保つことが難しくなり、美術品として生き残りを図る方向となのです。本来はたくさん制作、販売する「産業」なのですが、将来どのようになっていくかは見通せません。
でも!その時、その時でやれる事をやっていこうということです。
では最後の「雷様お参りついでにいかがですか


(案内状掲載の振袖は大先輩である小倉貞右先生の昨年の作品です)




出品作の制作風景から。


色挿し


途中で立て掛けて色調を確認します。
ちょうど衿と衽を剥ぎ合せた部分で、長細く裁ち切った生地を縫い合わせて反物状に戻して染め作業をしているところです。

お知らせ | 06:13 PM | comments (x) | trackback (x)

東京国立博物館の正面階段のお正月展示
この踊り場は半沢直樹ドラマで、銀行に金融庁が押しかけてくる場面でさかんに登場しました。



一月には毎年、東京国立博物館で長谷川等伯の「松林図屏風」の展示があります。
一月に行ってみるのは初めてでした。


国宝中の国宝だと思うこの屏風。
久しぶりの再会。さすがの貫禄。
等伯が描きたかったのは木立の中央に横たわるモヤ。
自分の心象風景を描いた日本では最初の画家だとぼかし屋は思うのであります(^^;)

一月にふさわしい着物の展示も。


江戸時代の夜着。分厚い掛け布団です。解説によれば「夜着は普通友禅染だが、これは絞り染め」とのこと。当時の製品としては友禅染より高級品となります。
色々な絞り方が駆使されています。今なら打掛にしても超豪華なのに、これをお布団にしてしまう贅沢には驚きます。江戸時代は庶民に対して何度も奢侈禁止令が出されていますから、持ち主はおそらく商家で、娘の婚礼のために見えないところで贅をつくしたのでしょう。。



橘の木立を描いた小袖。橘は代表的な吉祥文様です。


主役は刺繍と糊匹田による枝ですが、脇役として友禅染で描かれた橘もありますよ。


橘と葉のブルーのところです。
細い細い真糊の糸目がきれいでした。


展覧会ルポ | 11:50 PM | comments (x) | trackback (x)
ぼかし屋友禅の年賀あいさつ



昨年中は多くの皆さまにお世話になりました。
今年は能登の地震、羽田空港の事故など驚くばかりの年明けとなりました。
もともと、ロシアによるウクライナ侵攻、イスラエルによるガザ地区への攻撃と、強い者が弱い者を攻撃し続ける中での新年ではありました。
加えてこのような災害に見舞われた能登地方の皆さまにはお見舞い申し上げます。
これから冬本番。せめて暖かい設備の整った場所に、迅速に移動していただく事はできないのでしょうか。
すべてがもどかしい毎日となっております。

※ 年賀状の左下の写真は下落合にある吉澤湯のしさんで写しました。
染めの作業で歪んだり縮んだりした生地に大量の蒸気にあってて、真っすぐ平らな反物に戻す作業です。絹の生地の染色には欠かせない工程です。

お知らせ | 09:33 PM | comments (x) | trackback (x)
まるで糸目友禅「冬あじさい」

初夏の花、あじさいにも冬があると知りました。
我がベランダのあじさいの鉢が綺麗に紅葉した、正しくは綺麗に冬枯れしたのです。




赤い部分が赤ワインの赤、ロゼワインのようなピンク色で、それが緑の部分と調和していて驚きました。これほど美しく色付いたのは初めてだと思います。



葉脈がまるで糸目糊の跡のよう。糸目友禅ですね。
きれいにぼかし染め出来ています(*’▽’)

前回紹介した丸紅ギャラリーで来月は桃山時代の辻が花染めの小袖裂と復元小袖が展示されます。


右側が退色した裂。左側が復元小袖の色だそうです。
400年の年月で赤は黄色を通り越して、ほとんどベージュになってしまうのですね。


復元の艶やかさと共に見てみたいものです。

冬枯れたあじさいの赤色、400年前の赤…
赤は基本の色目ですね!

季節の便り | 04:54 PM | comments (x) | trackback (x)
ぼかし屋は都内、地下鉄東西線の沿線。同じく東西線の竹橋駅から徒歩1分の丸紅ギャラリーにひとっ走り行ってまいりました。
「よみがえった女房装束の美 源氏物語」を見に。




源氏物語に描かれた十二単を実践女子大のチームが五年がかりで復元したものの展示です。

十二単は着装姿の呼び名ですが、復元は裳、唐衣、襲ね衣などパーツごとに精密に再現したそうです。


NHKのアートシーンでも紹介されていました。
(画像はアートシーンから)
現存する衣装には平安時代の物がないため、「誰も見たことのない衣装」を源氏物語の明石の君を描いた部分から調査、再現したとのこと。大仕事です。


拝見してまず思ったのは「柔らかそう」
例えば皇族の婚礼衣装やお雛様から受ける印象は、ゴワゴワした硬い衣装を複雑に着重ねたというもの。ところが復元衣装はどれもフワッと柔らかそうな生地で、縫製も柔らかそうでした。一番硬いであろう上着でさえ柔らかそうな織りでした。
これなら何枚も重ねて着て生活しても大丈夫です。



会場の説明の中に、「平安時代の衣装と、江戸から現代までの衣装はかなり違う」「特に明治時代になると、西洋式に立ち姿が整って見えることが優先され、衣装を硬く張らせるようになった」とありました。なるほど。柔らかい衣装は立つと身体に沿ってタラリと流れてしまい見栄えがしないと考えられたのでしょう。
江戸時代以前の宮中では生活も儀式もすべて座って行われ、まして平安時代、源氏物語には「姫君方は立ち歩くことさえまれ」とありますよね。
(現代語訳しか読んでいません、悪しからず)

源氏物語の描写には紐や帯が登場せず、衣服は襲ねて(重ねて)羽織っていただけだそうです。正装する場合には裳を腰に付け、裳の紐部分が腰を締めただけのようです。
源氏物語の中には「窶れて薄い肩」などという表現がありますが、これまでは何となく明治以降の十二単や袿を念頭に着ている人の体型など分からないだろうと思っていましたが、この復元衣なら肩が薄いことはよく分かることでしょう。

上着にあたる袿(うちき)の再現
二陪織物(ふたえおりもの)と呼ぶとても高度な織物だそうです。地紋を織り出した生地にさらに別の色糸で有職文様を浮き織りにすると説明がありました。実は今一つ技については理解できませんが、見るからにスゴイ技術で、しかも柔らかそう。触ってみたいですね!

(表を裏が両方見えるように展示されていました)

復元品の展示だけなので時間はかかりません。チョット見でもOKです。
平安時代の衣装が見られるのは今月末、12月28日までです。

さて来年の大河ドラマは紫式部。十二単のオンパレードになりそう。
いったいどのような衣装、お化粧、室内照明が描かれるでしょうか。
以前の大河で平安末期の平清盛が主人公となった時、映像がかなり史実に迫っていて、身分ごとの衣装や油を燃やすだけの室内照明を表現していて楽しめました。
ただし視聴率は芳しくなかったと記憶しております。.残念ながら.「衣装が汚い、暗い」という理由で。
確かに映像は全体に暗く、若い清盛やその家族の衣装が擦り減っていたり、庶民に至っては襤褸をまとって登場してました。でもそれが本当だったろうと思います。
絹どころか麻の生地でも貴重で、いつも新しい状態で着ていられたのは、ごく一部の階層だけだったからです。照明もそう。性能のよい蝋燭や行燈はもっと後の発明だそうですよ。薄暗い中に再現衣装のような衣をふんわりまとった女性がいたら、神秘的だったでしょうね!

女性衣装の話から逸れますが、ドラマに登場するであろう調度品、古い型(幅が狭い)の屏風、御所車や輿、男性の普段着、特に天皇の衣服が楽しみです。
室町時代や江戸時代を舞台にしたドラマで登場する貴族男性はみな制服のように黒い衣冠束帯ばかりですからツマラナイ。
男性の普段着である直衣(のうし)も実は今の今のものより柔らかく着やすい衣装だったのかもしれないですね。
それにしても来年の大河ドラマの衣装関係の制作費は膨大なのでは?
コンピューターグラフィックスで着ているように見せる、のはやめていただきたいですね~~(^_^;)

展覧会ルポ | 10:13 PM | comments (x) | trackback (x)
笛を包む手描き友禅の布
前回の徳川家康の絞り染めの羽織の紹介に続き、今回も家康に関連して、友禅染の布の紹介です。
NHKの番組「英雄たちの選択」で家康が息子に形見として遺した著名な笛が取り上げられていました。「乃可勢」(のかぜ)と呼ばれる笛で、信長、秀吉から家康の所有となった名笛だそうです。
(画像は放送からお借りしています)



家康には多くも息子がいましたが、二代将軍を継いだ秀忠からみて、歳の近い弟であった六男、忠輝は、将軍職の長子相続制を確立させるために犠牲となり20代のうちに蟄居の身となり、諏訪市の貞松院で人生を過ごした人です。


笛は家康の死後に形見として生母を通じて忠輝に遺され、今も貞松院で保管されているそうです。
画像は番組で紹介されたその笛ですが、ご覧いただきたいのは笛よりも!それを包む布!



本格的な手描き友禅で花丸の模様が染められています。
古く黄ばみ、かなり退色もしているようですが、美しい完璧なる手描き友禅染めです。まるでお手本。


米粉、糠粉で作った真糊を筒描きして防染し、その跡が白い糸目のように見えています。(糸目友禅とも呼ばれます)
化学染料の色だと思いますので、江戸時代後期以降から昭和期の友禅だと思います。縮緬の生地に花丸模様、花にぼかしで彩色。


糸目の外側に少々染料が浸み出ている所が手描きの味わいでとても良いです!(^^)!
本来はこのようにはみ出しや浸み出しがある事が手描きの特長なのですが、今は完全を求められることが多く、少々窮屈です。
機械プリントではないので「じわっと滲み出た感じ」が良さなのですが。
それをそのままにしているこの友禅染めは、現代のものではなく、手作業の誤差にまだ寛容だった時代の物ですね。新しくとも昭和前期かな、と想像します。


ずっしりと重そうな縮緬の生地。
縮緬生地は表面にシボと呼ばれる凹凸があります。凹凸の大きいと「シボが粗い」とか「鬼シボ」などと呼びます。この生地はかなり鬼シボ


笛の陰になっている部分をご覧ください。粗いシボがよく分かります。
こういう生地は実は、糸目糊置きがやりにくい!筒から線描きした糊が粗いシボのためにめくれて途切れやすいのです。し~っかり生地に食い込むように生地に糊を落とし込む必要がありまして…。ですからこの生地をアップで拝見すると「上手な糸目糊だな~」と尊敬せずにはいられません。
最近は華やかな地紋を織り出した生地が主流で、鬼シボ縮緬で着物を染めることは、まず無くなりました。助かりますが、「それでは訓練にならないよ」とこの生地に言われそう!!!


いつ、だれが、この布で笛を包んだのでしょうね。
諏訪市貞松院で検索しますと、ホームページの寺宝の項目でこの生地、笛をご覧になれます。残念ながら包み布については特に説明がありませんでした。
名笛や刀など宝物の保存には高価な織物が使われることが多いはずですが、この笛は友禅染の縮緬で柔らかく包まれていたのですね。

政治面でも家康に貢献した側室だった生母、阿茶の局の庇護もあったことでしょう。忠輝公は蟄居先の貞松院で安定して暮らし92歳まで長生きしたそうです。江戸時代としては大変な高齢。世俗と距離をおいたのがよかったのかもしれないですね。笛の名手だったそうです。

東京手描き友禅 模様のお話 | 01:46 PM | comments (x) | trackback (x)
今放送中のNHK大河ドラマ「どうする家康」が佳境を迎えています。
頼りない若様だった家康が様々な辛酸を経て家臣に恵まれ天下を制していくストーリー。
年齢と共にずいぶん家康らしくなってきたな~と思いながら楽しんで観ております。

大河ドラマの衣装については素晴らしい、時代にも合っていると感心する場合と、時代的にあり得ない色や形で疑問符がつく場合とがありますが、今年の家康は前者。
特に後半になってからの家康の衣装が凝っています。


後ろ姿が家康。絞り染めの羽織です。


白地に模様を出すために糸で模様と地の間を縫い絞り、模様部分(内側)だけを彩色したり、墨の細い線で形をとった技法です。私は詳しくないのですが、安土桃山期から江戸初期の染めで「辻が花」と呼ばれる絞り染めの一つです。


徳川家の家紋である三つ葉葵紋が染め抜かれています。デザインもお洒落で、作成にあたり具体的な参考例があったのでしょうか。

上野の東京国立博物館の常設展示で見たことのある家康の羽織をご紹介します。


展示の解説によれば、千葉県行徳の鷹師、荒井源左衛門が家康から拝領したものと伝わる羽織。背紋は丸枠の中に三つの「三つ葉葵紋」で凝っています。


あまり退色せず綺麗な状態です。鷹狩が好きだった家康。よい仕事をした鷹匠に衣服を与え、鷹匠の子孫が大切に保存してきた様子ですね。


雰囲気がよく似ているので、テレビに登場する羽織は現存する羽織を参考にして制作されたのかもしれませんね。

テレビ画像に戻って、

写真では分かり難いのですが、家臣たちの衣装は家康の羽織より単純な柄ながら絞りが多く「本当にこんな感じの姿だったのかもしれないな」と思わせられました。

着物あれこれ | 11:08 PM | comments (x) | trackback (x)
前回お勧めしたTV番組「ロイヤルミステリー皇后のドレスの謎」で取り上げられた明治時代の大礼服ドレスを、放送内容もとても興味深かったのでテレビ画像をお借りして紹介いたします。




長い裾を引くデザインで当時流行のバッスルスタイルという高い後ろ腰が特長です。


模様はすべてバラ。織り方の種類を変えてバラの濃淡と立体感を表現し、さらに精巧な刺繍を加えるという高度な技術の織物だ説明がありました。


このドレスは明治時代の最高礼装で、明治天皇の妻、美子皇后が着用したもの。京都の大聖寺に保管されていましたが、経年劣化がひどく修複することとなり、初めてドレスを解いたところ、ヨーロッパ製と思われていたドレス生地が実は国産だと分かり、その検証過程を紹介する番組でした。

修復前。きれいに見えても生地が擦れ、刺繍も解けたり崩れたりしています。


なぜ国産と分かったかというと、ほどいた生地の裏に刺繍を支えるための当て紙として和紙が使われていたから。

ドレスを解くと生地の裏側に、厚い刺繍で生地が歪まないように裏打ちとして使われていたそうなのです。


拡大しますと、


和紙は再利用紙で、「遣拂帳」(つかい払い帳」と書かれている紙も。今でいう経理台帳だそうです。


他に天竜、造船所などの言葉も。軍艦天竜は大阪の造船所で明治16年(1883)に完成していることから、このドレスの制作年代は天竜完成からバッスルスタイルの流行が終わる明治23年(1890)の間と判明したそうです。
日本では古来、紙の再利用は広く行われていたと言われていますね。古い襖を貼り替えようと剥がしたら、裏打ちに商家の大福帳が出てきたなどなど。

和紙は裏打ち以外にも使われていました。

傷んだ金モールとラメの刺繍
厚みを出すために刺繍糸と生地の間に挿んで使われた素材は泥紙(どろがみ)と呼ばれる反故紙(ほごし) 古い紙を漉き返し、砕いた泥や木の皮を漉き込んだ分厚い紙でした。

泥紙は防湿防水に優れ丈夫で、刺繍の形に合わせてカットできるので、江戸時代から厚みのある刺繍で使われてきたと刺繍の専門家の説明がありました。何といっても針の通りが良いので刺繍に使いやすいとのこと。先人の知恵ですね!
厚みのある刺繍といえばお相撲さんの化粧まわしが思い浮かびます。他にも歌舞伎の衣装やお祭りの幔幕にもありそうですね。

動かしがたい証拠が出てこの生地は日本製だということは分かった、では誰がこれほどの織物を作り上げたのか。
放送では
明治11年からフランス、リヨンに留学、明治15年にリヨン織物学校を卒業した近藤徳太郎氏が技術指導者として関わったとしています。
彼は京都出身。首都が東京になり織物産業は危機に面した京都、西陣から大勢の若者がリヨンに留学したそうです。明治維新からわずか10年後に日本が技術留学生を送り出していたとは知りませんでした。23歳でのリヨン行き。若いですが、当時職人の世界は遅くても15歳位で働きしますから彼もきっと日本の技術は一通り身に付けてからの留学だったと思われます。
日本の近代化を進める資金の多くを稼ぎ出したのは、絹糸の輸出だと教科書にも載っている事ですが、糸ばかりでなく自国で高級な絹製品を作ることを、ごく初期の頃から目指していたとは知りませんでした。



  色だけでなく織り方の変化で遠近をつけた技術



近藤氏は留学から戻ると渋沢栄一が設立した京都織物株式会社で技術者として働き、この会社は美子皇后の住んだ明治宮殿の内装織物を請け負っていた関係から、皇后の衣服のための生地を織って納めたことは十分あり得るというのが番組の筋立てでした。
明治20年ごろ(1880年代の終わり頃)すでにリヨンに引けを取らない織物技術が日本にはあったということです。
このドレス生地の写真を見せられたリヨンの技術者が、織りの技術の高さに「これはリヨン製に間違いない」と言い切る場面もありました。
 
近藤氏はその後長く技術者として足利で活躍していて、明治28年に織物技術の学校として創立された現在の栃木県立足利工業高校に保管されている彼の履歴書が紹介されていました。
桐生など群馬、栃木の一帯は養蚕、繊維工業で栄えておりましたから、足利もその一部だったのですね。
番組では美子皇后が洋装の普及や繊維産業の発展に寄与したことも取り上げられていました。前述の京都織物株式会社には多額の寄付を行った記録もあるそうです。
そういえば、前の皇后、美智子様がお召しになる服はすべて国産だという報道を聞いたことがあります。

火縄銃もそうでしたが、かつての日本人は何でも自分たちで作れるようになろうという精神に溢れていたのですね!(今は?…)

番組で1880年代と思われる貴重な写真も紹介されていました。
染織の工場。教科書風に言えば「マニュファクチャーの現場写真」です。

刺繍


織物


染色


この染色の写真は驚きです!
刺繍と織物には女性も写っているのに、この引き染め工場は男性ばかり!それに着流し姿で刷毛を使っています。さすがに着物の袖は襷掛けしているようですが、裾長の着流しで働くというのは現代から見ると異様ですね。男性なら裾をからげる(はしょる)か、または野良着のように短い着物と股引で働くものだと思っていました。
知らない事を色々教えてくれた番組でした。感謝。

着物あれこれ | 11:39 PM | comments (x) | trackback (x)
着物の技術で制作した明治の大礼服

明日9月30日(土)18時から NHK BSプレミアムで
「ロイヤルミステリー 皇后のドレスの謎」が再放送されます。

昨年放送された時に見たのですが、着物好きとしては興味深い内容でした。再放送があるならぜひご紹介したいと思います。もっと早くご案内したかったのですが、今日の明日になって気付きました。
大急ぎで書いております。

放送当時の番組案内です(朝日新聞から)


このドレスは明治天皇の皇后が式典で着用したものだそうです。
同じく朝日のネット番組案内からの写真で 大きくご覧いただけます。





番組の主旨は、このドレスは打掛や振袖を作るのと同じ技術で作られていること。
明治時代になって宮中行事のドレスコードで最上位とされたドレス類について、従来はフランスなどからの輸入生地で作られたものとされてきましたが、近年生地も縫製も日本人によって行われたものが多いと分かってきたのです。
番組中で生地のアップも見られます。確かに江戸以来の刺繍職人が縫い上げたのだな!という感じが分かりますよ。
武士の世が終わり、刀に関わる多くの職人が錺細工(かぎざいく)に乗り出したように、織り刺繍の職人も形が着物からドレスに変わっても同じ技術が活かせたという事ですね。
初回放送を見ましたが、再放送も再度見てみようと思います。

お知らせ | 11:06 PM | comments (x) | trackback (x)

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