着物あれこれ

 
 だいぶ暖かくなりました。雛祭りも過ぎてしまいましたが、旧暦ならまだ二月なのでご勘弁いただき、今日はぼかし屋所有のお雛様をご紹介いたします。



岩槻の人形作家、有松陽寿氏の木目込み人形です。
静かな大人びた雰囲気で、上品な引き目に鼻筋が通り、お下げ髪です。衣装着のお雛様の髪はおすべらかしが普通ですが、木目込み人形はたいていお下げですね。このお雛様も鬢を膨らませることなく、まっすぐに下げた髪を後ろで束ねています。
衣装は十二単で、全体に平安朝風なところが気に入っております。
お内裏様は正統派の直衣姿。濃い藍色の渋い色目がお雛様の柔らかさを際立たせています。
後ろの屏風は酒井抱一の屏風絵を模したミニチュアで、抱一の展覧会のミュージアムショップでみつけ、このお雛様・お内裏様にとてもお似合いだと思い購入しました。なかなか一度に揃えることは出来ませんが、少しずつお道具も買い足して来ました。お道具は古美術店で発見しました。塗りのお道具類を新品で購入することは経済的に無理なのでUsedで楽しんでいます。
毎年このお雛様に会うと、名残り惜しいのでいつまでも飾っております。でももうそろそろ仕舞ってお休みいただかなくては。

着物あれこれ | 08:02 PM | comments (x) | trackback (x)
着物姿の卒業式と言えば何といっても袴です。女学生最後の式典に明治大正の女学生の象徴だった袴姿で正装するのは、もはや常識のようになっていますね。
 最近NHK の「美の壺」という番組で女学生の袴を取り上げていました。それによると明治初期の女学生は男性用の袴をはいていたそうです。写真が写っていましたが、なるほどお侍さんがはいていたような雰囲気の袴で、無粋な感じ。それも程なく「見苦しい」という理由で禁止になったそうです。その後、女学生の袴の誕生に貢献したのは当時、華族女学校で教えていた下田歌子という先生だそうです。宮中女官の正装が袿袴であったところから、着流しではなく女学生も袴をつけるのが礼にかなうという理由で、下田歌子が女学校に袴を取り入れたのだとか。そしてその際にズボン型の袴から現在のようなスカート型に変わったそうです。
 そんな経緯があったとは知りませんでした。確かに本来袴は袿姿に欠かせないもので、宮中の女性と言えば袴。今の神社の巫女さんのファッションにみられるように、白い小袖に緋の袴が基本です。その上に身分や場に応じて袿をガウンのようにまとえば袿姿。さらにその上から裳をつけて後ろに引き、上着として唐衣を重ねるといわゆる十二単の出来上がり。袴はズボン型で後ろに長く引く長袴、ただし立ち働く必要がある場合などは引きずらない程度の長さだったようです。今の巫女さんの袴も引きずらないズボン型が多いようにお見受けします。
 なぜ女学生用に考案された時、袴がスカート型になったのでしょう。下田歌子女史に聞いてみたいですね。
 下田歌子、どんな人だったのだろう、とネット検索してみたら、ありました。今の実践女子学園を創設した教育者だったそうです。同学園のホームページに写真が載っていました。それが袴姿。なるほど、なるほど。写真では確かにスカート型の袴を着用し、その上から被布か道行か分かりませんが、上着を羽織っています。優し気な上品な雰囲気の女性の写真でした。
 以前からスカート型の女学生袴を見ると 韓国の民族衣装であるチマ・チョゴリを思い浮かべておりました。
 基本の構造が同じです。チマの方が袴よりフワッとしていますし、色、柄もはるかに豊富ですが、さっそうと歩ける点は同じです。はるか昔、例えば高松塚古墳の壁画の女性たちの時代は、日本も朝鮮半島もほとんど同じファッションだったと思われるのに、その後それぞれに発達した結果、朝鮮半島ファッションが高松塚古墳ファッションを元にスカート型のチマになったのとは対照的に、日本では下着であったはずの小袖が発達し、袴を省略した着流しの小袖姿を装飾性の高い帯でしめ上げるようになってしまいました。残念ながら今の日本の着物は「動きにくい、着にくい」ものになっております。
 先祖が1000年以上にわたって育んできた文化の結果なので、今さら仕方がありませんが、私は常々、日本の着物もチマ・チョゴリのような袴型ファッションが主流だったらよかったのに、と思っております。訪問着や振袖(つまり小袖)に西陣織などの幅広の豪華な帯を組み合わせる今の日本の着物姿が、もちろん好きですが、非活動的であることだけは確かですから。
 なぜこうなったのか、ご先祖様に聞いてみたいものですね。
着物あれこれ | 12:06 AM | comments (x) | trackback (x)
 最近知った英語に Bespoke があります。誂えという意味だそうです。
誂えるといえばオーダーメイド。でもこれは和製英語だそうです。正しくは custom-made 仕立て屋さんで誂える場合は tailor made とか。この辺りは何となく知っていても 
Bespoke は知りませんでした。
 背広の語源で知られるロンドンのセビル・ロウ通りにある紳士服の仕立て屋さんで主に使われる言葉とか。
誂え制作では、注文する人と受注する側が、たくさん話して作り上げていくからでしょうか。なかなか意味深長な言葉ですね。
 日本で誂えるものと言えば着物でしょう、と言いたいところですが、今どきアツラエルという動詞を知らない若者もいて残念。それに日本でもオーダーメイドで思い浮かぶものの筆頭はやはり紳士服。残念ながらちょっと太刀打ちできません。
 それでも東京手描友禅では他の産地と比べ、もともと誂え染めの割合が高かったという話を聞いたことがあります。未確認ですが。何でも京友禅と比べると業界規模自体が小さかったため量産が発達せず、かえって創作1点ものの誂えが多く生き残ったそうです。京友禅は日本中に出回りましたが、東京の友禅は地産地消ですから。
 着物や衣服だけでなく、他にも誂え制作を注文できる分野は広がるといいですね。
 

着物あれこれ | 02:23 AM | comments (x) | trackback (x)
 着物や染物、振袖といった話題が取り上げられるテレビは、なるべく見逃さないようにしております。
先日は報道番組で女性の起業家が増えていることが話題になっていました。
 雇用情勢の悪化もあり起業自体が増えているそうですが、特に女性は若い層で企業する例が多いそうです。
 その中で古い着物をレンタルする事業をなさっている方が取り上げられていました。店舗にアンティーク着物を揃え、お客様に着付けするところまでサービスするそうですが、その社長さんが20代の女性だというのは嬉しい限りです。
 着物離れが言われて久しい今、着物業界は職種に関わらず高齢化しており、若い方は少ないのです。親の跡を継いだ方を除くとなおさらです。
 映像で見ますとなかなかよい友禅染めの着物や紬類を扱っておられる様子でした。若い女性がこういう着物を「仕事にしよう」と思ってくださるとは、明るい気持ちになります。画面に向かってエールを送ったことでした。

 昔、といっても昭和3、40年代までに制作された友禅染の着物は柄が今より個性的で大胆なものが多い印象があります。
 多くの女性が日常生活で着物を着ていた戦前はもちろん、昭和40年代くらいまでは、冠婚葬祭はもちろん学校行事や他家の訪問などでも和装の女性が多かったのです。実は私も授業参観の日に教室の後ろに並ぶ母親たちの中に和装の母を見つけると、嬉しかったものです。和装だと「きちんとしている感」があったのです。
 着物を着ているだけで目立つ現代とは違いますから、多くの人と同じような柄ではなく個性を出したいと思う女性も多かったのでしょう。それに誂え染めも今より多くの女性が利用していたそうなので、「こんな柄行きがいいわ」「もっとこんな色で」などなど、職人さんとの会話の場面も今より多かったことでしょう。
 そんなところから個性的な着物が生み出されていったのかもしれませんね。

 ご高齢の職人さん、呉服関係の方から当時のお話しを伺うと、どうしても「あのころはよかったなあ」と懐古調になるのが、微笑ましいような残念なような。

 私が師匠の仕事を手伝わせてもらいながら友禅染めを学び始めたころ、世の中はすでに着物離れが始まっていました。バブル期だったので成人式・結婚式こそ華やかで、今と違い振袖などもレンタルは少数派でしたが、着物がセレモニー専用のようになってきており、たとえば街中で浴衣を着て楽しむ若い女性は今と比較にならないほど少なかったのです。
 今日の浴衣人気は呉服屋さんたちの地道なアピール活動が実を結んだことだと思います。最近は浴衣から一歩進んで小紋姿で連れ立つ女性も以前より見かけるような気がします。前述の社長さんのような方々の努力のおかげかもしれませんね。
ぼかし屋の場合は手描友禅を主に手掛けますので、どうしても守備範囲は正装・礼装・よそゆきの着物になります。
 これまでもお客様に「まぁステキ!」とおっしゃっていただくことが何よりの励ましでしたが、今後もささやかながら今ある技術を伝え、女性の皆さんに「せっかくの機会だから着物でオシャレしようかしら」と思っていただけるような制作をしていきたいと思っております。

 どうぞよろしくお願いいたします。


着物あれこれ | 07:45 PM | comments (x) | trackback (x)

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